年を重ねるごとに存在感を増し続ける、草笛光子さん。
80代となった今も特徴的なグレイヘアーで活躍されています。
若い頃の姿をみて改めて美しさに気付きました!
草笛光子さんのプロフィール
- 生年月日: 1933年10月22日
- 生まれ: 神奈川県 横浜市 神奈川区
- 出生名:栗田光子
- 身長 158 cm
- 血液型 B型
- 県立横浜第一女子高校(中退)
- 配偶者 芥川也寸志(1960年 – 1962年)
- 著名な家族: 妹(富田恵子)、弟(富田直幹)
草笛光子さんの父親は横浜の商店街連合会の事務をされていて、母親は洋裁店を営んでいました。
草笛光子さんが生まれた時、母親は17歳だっとのこと。
その後、母親は草笛光子さんのマネージャーとなり、2009年に亡くなるまでサポートし続けることになります・・・
草笛光子さんは祖父母の後を継ぐ者がいなかったので、養女となり栗田姓を名乗ることになりました。そのため実の母とは義理の姉妹という関係になっています。
草笛光子さんは虚弱体質のため、小学校時代からバレエを習っていました。
子供のころは大変な人見知りで家族としか話すことができず、神奈川県立横浜第一高等女学校(現神奈川県立横浜平沼高校)時代は通学のためのひと駅の電車にも心臓がドキドキして乗れずに、4キロの道のりを歩いて通ったといいます。
岸恵子さんと同じ学校、一学年下だそうです!
「ま、そのおかげで体が丈夫になって、スポーツをするようになりました。人としゃべらなくてすみますからね。創作舞踊のクラブにも入りました。先生がピアノ弾いて、お題があって、自分が感じたことを表現する。もしかしたらあれが表現をする面白さを感じた第一歩だったかもね。本当は人とコミュニケーションとりたかったんだ、自分を表現したかったんだって、ずいぶん大人になってからそう気づきました」
そんな人見知りの激しい草笛光子さんでしたが、高校3年のとき松竹歌劇団(SKD)を受けて合格。
SKDにあこがれていた友達に頼まれてのことだったそうです。
見事に60倍の競争率を突破したことで、自分にもできるのではないかと自信が生まれましたが、県下有数の女学校から芸能界に入るには、周りが猛反対・・・
反対されることで、逆にやる気がでたとのことで松竹音楽舞踊学校に入学しました。
入ったから卒業までに一番になってやる。そう決意した草笛光子さんは、本当に松竹音楽舞踊学校を首席で卒業しました。
草笛光子さんの若い頃、SKD(松竹歌劇団)で芸能界デビュー
SKDでは10年にひとりの逸材といわれました。
1952年6月、歌劇団始まって以来という異例の抜擢で『リオ・グランデ』の歌姫・ビアトリスに起用。
1953年1月には『春のおどり』にプリマドンナとして出演し、舞台栄えする容貌と抜群の歌唱力で注目を集めました。
草笛光子さんの若い頃、20歳で映画デビュー
1953年、松竹音楽舞踊学校に在籍中のまま、松竹(松竹京都撮影所)から映画『純潔革命』でデビューしました。
#純潔革命
1953年の川島雄三監督映画。戦後の恋愛と結婚の自由と責任を複数の男女カップルで描いた作品。主演の草笛光子さんデビュー作品で貫録の存在感、ピアノの中村八大さんなどの”ビックフォー”のジャズ演奏も楽しみ。特に注目は母親役の名女優たち、市川春代さん、藤城鮎子さん、金剛麗子さん。 pic.twitter.com/8YD5PXCSRy— マヤの暦・人生の自由研究 (@syowa40stvdrama) August 3, 2018
平凡 昭和29年9月号『女のおしゃれ教室 髪型ハリウッドスタイル』/モデル:野添ひとみさん、安西郷子さん、久我美子さん、草笛光子さん 結髪:山野愛子さん pic.twitter.com/5TG0YSxqNy
— 島倉千代菊 (@wataridori333) November 17, 2019
映画と歌劇の舞台の掛け持ちは無理なスケジュールだったようで、大いに悩んだ末、映画に集中することに・・・
草笛光子さんの若い頃、松竹から東宝へ移籍
1956年、松竹を退社し東宝と専属契約を結びます。
「雨情」では森繁久彌扮する童謡詩人が恋する芸者役を演じ、以降、森繁主演の「社長」シリーズで社長の浮気相手を華やかに演じました。
写真からも色っぽさが伝わってきますね。
草笛光子さんの若い頃、バラエティ番組の元祖『光子の窓』に出演
1958年には日本テレビ『光子の窓』のホステスとなり、毎回ゲストを迎えてトークをしながら、歌や踊りで楽しませるバラエティ番組の原型を確立しました。
光子の窓とプロデューサー井原高忠と #ij954 pic.twitter.com/zMhJ3A6pkD
— mo10fu3@白熊 (@mo10fu_3) July 4, 2016
昭和32年の東宝ミュージカル
「パノラマ島奇譚」左から益田喜頓、有島一郎、三木のり平、トニー谷、榎本健一(エノケン)、草笛光子 pic.twitter.com/sYAtL6nUSA— ゆきちゃん (@marinamirins) October 26, 2016
草笛光子さんの若い頃、1960年に結婚
1960年に作曲家の芥川也寸志さんと結婚しますが、結婚生活は2年で破綻してしまいました。
芥川也寸志さんは、芥川龍之介さんの息子だったとのことです。
1925年7月12日は作曲家の芥川也寸志さんの生誕日です。(肺がんのため63歳で死去)
2歳の時に父である芥川龍之介さんが自殺しました。1950年、窓ガラス越しのキスシーンで有名な映画「また逢う日まで」に、ピアノを弾く学生の役で出演。結婚は3度しており2度目の妻は草笛光子さんです。 pic.twitter.com/JSWHtIMRF0— 森永タミー (@tammy_morinaga) July 11, 2019
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草笛光子さんの若い頃、ミュージカルへの想い
「日本にまだミュージカルのミの字もない時代でしたねえ。芝居する人、歌う人、踊る人と分かれている。ミュージカルというものがあると知ったのは、NHKのラジオで森繁さんと歌入りドラマをやっていた頃です。NHKの資料室に入り浸って外国のミュージカルのレコードを聴き、譜面を自分で書き写したり。ニューヨークまで観に行ったり」
1969年に初演された舞台「ラ・マンチャの男」は、草笛光子さんがぜひ日本でやりたいと熱望して実現しました。
しかし・・・
アルドンサ役を降ろされそうになり・・・
「決まっていた舞台の勉強のためにロンドンに本場の作品を観に行こうとした矢先、自分の役は別の人になってたの。もう悲しくて悔しくて、女優をやめようと怒って泣いていたら、ニューヨークで『ラ・マンチャの男』をやっているから観てきなさいと勧められて。行ったらガーンと衝撃を受けました。これをやらせてくれたら女優を続けようと、私を下ろした方のところに直談判に行きました」
直談判の末、アルドンサ役を務めた草笛光子さんは、1973年までこの役を演じることになりました。
草笛光子さんの若い頃、まとめ
女優であれば、みなさん人並外れた美人だし、才能に恵まれています。
若い頃はみんな輝いています。
しかし80代まで維持して第一線で活躍できる人は数少ない。その一人が草笛光子さんだとおもいました。
しかも年々オーラが増しているような気がします。全国の高齢者に元気を与えてくれる存在ですね!