「徹子の部屋」の司会でおなじみの黒柳徹子さんはNHKの創設時の女優第一号でした。
NHK入社時のエピソードから、たまねぎヘアーのナゾも、
その後の大活躍まで黒柳徹子さんの若い頃を振り返ってみました。
黒柳徹子さんのプロフィール
- 生年月日:1933年8月9日
- 出生地:東京府東京市赤坂区乃木坂(現・東京都港区乃木坂)
- 血液型:A型
- トモエ学園
- 香蘭女学校
- 東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業
黒柳徹子さんの父はNHK交響楽団のバンドマスターだった
黒柳徹子さん
は1933年(昭和8年)8月9日に東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂に生まれました。
そのころ東京では「東京音頭」が大流行していたそうです
母親が徹子さんを妊娠していた時、両親は男児が生まれるものと思い込んで、「徹」という名前を考えていました。
しかし、実際に生まれたのは女児だったため、やむを得ず「子」をつけて「徹子」にしたということです。
父は音楽家で、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口)
母はエッセイストの黒柳朝(旧姓門山)
出典元:黒柳徹子公式インスタグラム
この「伴奏・黒柳」とあるのは、やはり黒柳徹子の父としても有名な黒柳守綱であるようだ。
まさかこんな音盤で黒柳守綱のバイオリン伴奏を聞けるとは思わなかった。 pic.twitter.com/JvrNPETVKS— ʚ♡ɞたいら⋈(CV:藤 村 有 弘) (@crazy_cats1955) May 16, 2019
小学校一年で退学!学習障害だった?トモエ学園に転校
小学校に入学しますが、窓際でちんどん屋に声をかけたり、机のふたを何度も開け閉めするなど、落ち着きのない子供でした。
当時は病気という認識ではなかったと思いますが、後に黒柳徹子さん自身が
テレビに映っているLDといわれている子どもたちが、小さかったころの私のように見えたことだった。どんなに落ち着きがなく走り回って先生に注意されても、職員室が大好きで、どんどん中に入っていって、先生の机のところで一人で勉強している子供も、いた。私もそうだった。テレビで紹介された学校では、もう、そうなったら一対一で、そこで教えるのだと言っていた。そうすると子供も落ち着いてきて、集中して勉強するという
と、書籍の中で書かれています。
そんな行動が「問題児」とされたため、尋常小学校(現:公立小学校)を1年生の時に退学させられてしまい、トモエ学園1年生に転校。
トモエ学園の面接で、「話したい事を全部話してみて」といわれて、黒柳徹子さんは4時間も話しました。
そして4時間、話をきいたあと、「じゃあ、これで、きみは、この学校の生徒だよ」と入学できたそうです。
黒柳徹子さんの著作「窓ぎわのトットちゃん」では子供時代のことが描かれており1981年に発行されると大ベストセラーになりました
トモエ学園は東京の自由が丘にあった私立の小学校で、女優の池内淳子さんや津島恵子さんもこの小学校で学んでいました。
自由な校風のトモエ学園は黒柳徹子さんの個性にとてもあっていたようですね。
出典元:黒柳徹子公式インスタグラム
黒柳徹子さんが小学生の時代に、太平洋戦争があり青森に疎開していました。
出典元:黒柳徹子公式インスタグラム
戦争が終わり、1946年に香蘭女学校に入学
香蘭女学校は1888年創立のミッションスクールでお嬢様学校でした。
当時は旧制の高等女学校で5年制で今でいうと中学から高校ですね。
現在は香蘭女学校となっていて、大塚寧々さんや片桐はいりさんの出身校です。
音楽学校に進学するが・・・
高校卒業後、オペラ歌手になりたかった黒柳徹子さんは、東洋音楽学校に進学。
オペラ歌手を目指しますが断念してしまいました・・・
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黒柳徹子さん、NHK放送劇団に応募!
音楽学校卒業後、人形劇を見て
「自分の子どもに上手に絵本とか人形劇をやるお母さんになろう」
と考えて、母親にどうすればいいか聞いてみたところ、
新聞にでているんじゃないの?
と言われて新聞の募集欄を見てみると、NHKがテレビ放送を開始するにあたり、専属の俳優を募集しているとの広告を見つけました。
しかも、NHKはその募集広告をたった1日しか掲載しなかったそうです!
NHKだったら自分の子どもに読んであげる本の読み方ぐらい教えてくれるだろうと思った黒柳徹子さんはさっそく、履歴書を郵送しました。
すると、NHKから、どうして履歴書を持ってこないんだと返信が・・・
NHKまで履歴書を持参しないといけなかったらしく、すでに締切間近で・・・
一旦やめようと考えましたが、NHKに履歴書を持参しました。
その後、一次審査に無事合格、筆記試験をうけることに
筆記試験は500人が受けたそうです
筆記試験当日、NHKに向かうと他の受験生が誰もいなかったので守衛さんに尋ねると、試験会場は明治大学でした
試験をあきらめて新橋の駅まで、トボトボと歩いていたら、お小遣いの1000円札があるのに気づいて、タクシーで御茶ノ水まで向い、少し遅れたものの無事に受験することができました!!
到着するとすでに筆記試験が始まっていました。
「自分の長所と短所を書きなさい」という問題に、長所をびっしり書き込んで提出!
無事に二次試験も合格できました!
第三次試験は「パントマイム」
黒柳徹子さんはパントマイムが何なのかすら知らなかったので、他の受験生に
「パントマイムってなんですか?」と聞いたら
「そんな事も知らないの?」と笑われてしまいました・・・
課題はこのようなものでした・・・
あなたの恋人から手紙が来ました。あなたはワクワクして、早くその手紙を読もうとします。でも、まわりに人がいるので誰もいない部屋にいって読むことにしました。さぁ、誰もいない部屋にきました。手紙を読み始めます。
最初は嬉しいことが書いてありますが、読むうちにそれが別れを告げる手紙だとわかります。
絶望 嘆くあなた
芝居などやったことがないので、審査員も笑っていたそうです
それでもなんとか合格できました!
四次試験は歌の試験でした
課題曲は「埴生の宿」、当時は有名な曲だったようですね。
黒柳徹子さんが歌い終えると、審査員に言われたのが
君、音楽学校いっているって書いてあるけど、ほんとうなの?
と呆れられたそうです・・・
流石に落胆しましたが、合格だったのです。
この時点で6000人から15人くらいまで減っていました。
そして面接になり
「あなたは黒柳守綱さんと関係あるの?」と聞かれて、「はい」と
「お父さんには話してあるのですか?」と問われて、しどろもどろで
「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)・・・」
「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」
などのマイナスな発言を繰り返してしまいましたが、NHKに入りたい気持ちを伝えて面接を終えました。
さすがにもうダメだとおもっていましたが、
数日後、NHKの局長が直接訪問してきて、母親に
「娘さんをNHKに入社させたいと考えていますが、お父さんが反対されるかもしれないので」と相談に来られました・・・
母親のサポートもあり、無事にNHK放送劇団に入社することができました。
出典元:黒柳徹子公式インスタグラム
黒柳徹子さん、NHKラジオの人形劇で人気者に!
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NHK入社当初はテレビ女優として通行人やラジオ出演をしていましたが、
1954年(昭和29年)NHKラジオ第1で放送されたラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 – 1957年)でトン坊役を演じて人気がでました
以降も『チロリン村とくるみの木』(1956年 – 1964年)、
『ブーフーウー』(1960年 – 1967年)などに出演し、
さまざまなキャラクターの声を演じました。
当時の写真からも知的な雰囲気が感じられますね
NHKテレビ出演でも大活躍
子ども番組に加えて『若い季節』(1961年 – 1964年)、
『夢であいましょう』(1961年 – 1966年)などの人気番組にも出演し、
週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになりました。
「男はつらいよ」以前の渥美清さんと共演していました。
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20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週に10本を数え、平均睡眠時間3時間という日が続いて、過労からすべてのレギュラー番組を降板
1か月の入院生活を余儀なくされてしまいます。
NHK紅白歌合戦の司会に抜擢
1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』では紅組司会を務めました。
当時は今ほどの人気番組ではなかったため、予定していた歌手の方々が遅刻したりして司会は大変だったようです。
それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めました。
NHKを退職し本格的に役者の道へ
舞台出身の俳優との間に役者として演技力の差を感じていたことから、慕っていた杉村春子さんに文学座への入団を相談
1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生として入所し演技を学ぶことに
そのためNHKを退社することにしました。
1970年に出演した東宝のミュージカル『スカーレット』(帝国劇場)で知り合った作曲家のハロルド・ロームの夫人・フローレンスから
「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」
と招きを受けて、ニューヨークへの留学を決意。
黒柳徹子さん人生リセット、単身ニューヨークへ
出典元:文春オンライン
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1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームで生活しました。
プロの俳優に指導する「メアリーターサイ演劇学校」にて演技を学び、開校以来初の東洋人の生徒となりました。
黒柳徹子さんの「たまねぎヘアー」はニューヨーク生まれだった!
また、同じ建物の中にある「ルイジ・ダンススクール」でモダン・ダンスを学び、アフターファイブには振り袖を着てカクテルやディナーなど社交の場に足を運び、
「着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい」との思いから、ニューヨークで知り合って友人となったアメリカで活躍中のヘアメイクアーティスト・須賀勇介さんのアイディアを交えつつ、後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案しました。
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黒柳徹子さんがニューヨーク留学のときに書かれたエッセー「チャックより愛をこめて (文春文庫)」おすすめですよ
1976年『徹子の部屋』放送開始
1972年にニューヨークから帰国した後、テレビ朝日の『徹子の部屋』の放送がはじまりました
女優業については
「役を演じながら司会もやると混乱を招く」
「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」
との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになりました。
本人は50年は続けたいとおっしゃっています!!
黒柳徹子さんはどうして結婚しなかったのか?
黒柳徹子さんはこれまで一度も結婚をされていません・・・
しかし、かつて結婚を考えた相手が2人いたそうです。
相手は不明ですが、お見合いをされたことがあるそうです。
しかし、相手の『歩き方』が気に入らず破断してしまったということでした
二度目の相手は30代に出会った外国人男性とのこと。交際中も仕事をやめるつもりがなかったため、遠距離恋愛で40年も交際していたとのこと
出会いはニューヨーク時代でしょうか?
そのお相手とは死別してしまったということです。
黒柳徹子さんの所属は、吉田名保美事務所だった
黒柳徹子さんにファンレターを送りたいけど・・どこへ送ればいいのかわからないという声があります。
番組宛に送るのがいいと思いますが、所属事務所はどこなのでしょうか?
黒柳徹子さんは、吉田名保美事務所というところに所属しています。
創業者の吉田名保美(ヨシダ ナオミ)さんは女性マネージャーの草分けで、有島一郎、森光子のマネジャーを経て、昭和41年吉田名保美事務所を設立しました。
黒柳徹子さんをはじめ、佐久間良子さん、平幹二朗さん、松原智恵子さん、和泉雅子さん、波乃久里子さん、沢田亜矢子さん、桃井かおりさんなどが所属していました。
吉田名保美事務所は有限会社でホームページもありませんが、住所は
〒106-0031 東京都港区西麻布3丁目2 第二谷澤ビル
ですので、ファンレターはコチラに送ればいいと思いますよ
窓ぎわのトットちゃんの名言が深すぎる!
いまだに名作として読まれている「窓ぎわのトットちゃん」には数多くの名言がありました。
先にご紹介したトモエ学園入学時の先生の言葉、
「じゃあ、これで、きみは、この学校の生徒だよ」
そして日常でかけてくれる言葉
「君は、本当は、いい子なんだよ!」
トモエ学園創設者の小林氏の言葉
「どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう」
理想を現実にすることは、どんな時代、環境であっても簡単ではありませんね。
それだけに、心に響く言葉です
黒柳徹子さんの若い頃、まとめ
黒柳徹子さんの若い頃のエピソードを調べてみましたが、正直掴みきれていません・・・
NHKの入社試験に合格したのは本当に自分自身だけの実力だったのだろうか?
なぜ、ニューヨークまで行って演技を学んだのに帰国したら司会業に専念したのか?
異常とも思えるほど「徹子の部屋」を続けてこられたパワーはどこからでているのか?
結婚に至らなかった理由はホントのところなんだろう?
疑問がつきません・・・
テレビで姿が見られるのは楽しみですが、あまりムリされずにお元気でいてほしいですね!!