1940年代生まれ PR

中尾ミエさんの若い頃、16歳で大スターになった『可愛いベイビー』のヒットの理由は?

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70代になった現在も素敵なグレーヘアーでテレビで大活躍の中尾ミエさんですが、16歳のときに『可愛いベイビー』が大ヒットして以降、芸能界の第一線で活躍されています。

中尾ミエさんの若い頃の活躍と『可愛いベイビー』のヒットの理由を調べてみました。

スパーク3人娘

中尾ミエさんのプロフィール

  • 出生名:中尾 美禰子(なかおみねこ)
  • 生誕:1946年6月6日
  • 出身地:福岡県小倉市
  • 福岡教育大学附属小倉小学校
  • 千葉県市川市立真間小学校
  • 精華女子中学校
  • 精華学園女子高校中退
  • 身長:156センチ
  • 血液型:O型

1946年、福岡で裕福な家庭に生まれる

中尾ミエさんは6人兄弟の4番目として福岡でうまれました。

実家は書店を経営していました。

中尾ミエさんが出生当時は裕福な家庭で、元は武家屋敷だった大きな家に住んでいました。

母親は洋楽が好きで子供のころから洋楽に親しむ生活を送っていました。

福岡学芸大学附属小倉小学校に進学します。

親の事業失敗で上京

しかし、中尾ミエさんが小学生高学年の時に父親が事業に失敗

1958年に一家で上京することに・・・

以降は千葉県市川市で育ちました。

2部屋のアパートに8人で暮らしていたそうです。

市川では市川市立真間小学校に転校。

中学時代から米軍キャンプで歌手のアルバイト

精華学園中学校に進みますが

両親に大きな家に住んでもらいたいと、年齢を偽り米軍キャンプを巡るアルバイトをしていました。

芸能界を目指して東宝の募集に行きましたが、背が小さいからダメと渡辺プロダクションを紹介されました。

しかし、すぐには契約してもらえず毎日通って粘り、平岡精二のバンドに参加させてもらい、代々木のキャンプなどで歌っていました。

1961年に正式に渡辺プロと契約しました。

翌年には『可愛いベイビー』が大ヒットすることになります。

『スパーク3人娘』がアイドル的な人気に

すでに『可愛いベイビー』の大ヒットで紅白歌合戦にも出演して有名だった中尾ミエさんですが、園まりさん・伊東ゆかりさんらとスパーク3人娘を結成。

当初、まだ人気がなかった園まりさん・伊東ゆかりさんとのユニットで不満だったそうです。

3人は渡辺プロで当時大人気だったザ・ピーナッツの後継として期待されて、

クレージーキャッツ主演の『シャボン玉ホリデー』などに出演し一時代を築きます。

スパーク3人娘

『可愛いベイビー』以降ヒット曲が続かなかった中尾ミエさんですが、

歌謡曲路線で園まりさん、伊東ゆかりさんがヒット曲を連発するようになり、

『スパーク3人娘』での活動に助けられることになりました。

『可愛いベイビー』が大ヒット

16歳のときにリリースした『可愛いベイビー』が大ヒットし、紅白歌合戦にも出場

一躍スターとなりました!

当時のお母さんは子供が生まれると、BABYの所に赤ちゃんの名前を当てて歌っていたそうです。

 

20歳の若さで都内に一軒家を購入し両親へプレゼントしました。

その後、25歳になると両親の家の隣へ自宅を建て、現在もその場所で生活しています。

60歳からは自宅の隣に自己所有のアパートを建てて大家となり共同生活をしています。

コニー・フランシス “Pretty Little Baby” のカヴァー、デビュー曲の『可愛いベイビー』(1962年)は売上ランキング1位となり100万枚を売り上げる大ヒットとなりました。

可愛いベイビー 中尾ミエ可愛いベイビー 1962年4月25日

『可愛いベイビー』の原曲は、1961年のコニー・フランシスのヒット曲 “Pretty Little Baby”です。

原曲でのbabyは赤ちゃんではなく恋人のことを歌ったものでした。

当初、コニーフランシスさん自身が日本語で歌唱するために和訳されました。

訳詞を担当された漣健児(さざなみ けんじ)さんは、

コニーフランシスさんのアメリカでのレコーディングに立ち合いますが

原曲の“Pretty little baby ya ya”という歌詞を

可愛いベイビーハイハイ”に変更しました。

日本人がはいはいと発音することに興味をもって変更したそうです。

コニーフランシスさんの日本語のデモテープを聞いた渡辺社長が、とても気に入って

中尾ミエさんのデビュー曲になりました。

コニーフランシスさんの日本語バージョンはコチラです

『可愛いベイビー』の大ヒットで『第13回NHK紅白歌合戦』に初出場。

以降、昭和44年(1969年)の第20回まで8年連続出場をしました。

『可愛いベイビー』以降もアメリカンポップスの曲調のヒット曲を歌っています。

ネクタイピンとカフスボタンネクタイピンとカフスボタン(1962年6月5日)
りょうた
りょうた
『可愛いベイビー』とジャケットの写真が同じだね。大急ぎで発売したのかな?
ジングルベルジングルベル(1962年10月20日)
涙のジューク・ボックス涙のジューク・ボックス(1962年11月10日)
涙のバースディ・パーティ涙のバースディ・パーティ(1963年8月5日)
アイドルを探せアイドルを探せ(1965年1月5日)
夢みるシャンソン人形夢みるシャンソン人形(1965年9月)

恋はうそつき恋はうそつき(1967年8月)
花のさだめ花のさだめ(1968年1月)
淋しそうなあなた淋しそうなあなた(1968年9月5日)
すず
すず
大人っぽいジャケットだけど、まだ22歳なのね
男の酒場男の酒場(1970年9月)
続・若い季節続・若い季節(1964年)
日本一のゴマすり男日本一のゴマすり男・植木等・藤田まこと(1965年)

『可愛いベイビー』以降アメリカンポップス路線でしたが、本格歌謡路線の「片想い」が30万枚の大ヒットとなりました。

「片想い」「片想い」

1971年に発売された「片想い」は当初ヒットせずに廃盤になりますが

1977年になり、札幌の有線放送で人気が急上昇したので再発売されて大ヒットになりました。








毒舌キャラで人気者に!

アイドル歌手を経て、歌手活動を続けながら司会業も始めました。

気の強さと歯に衣着せぬ物言いが好評で

本業以外にも『ミエと良子のおしゃべり泥棒』などのトーク番組の司会を数多く務めました。

ミエと良子のおしゃべり泥棒

ミエと良子のおしゃべり泥棒

美川憲一に「和田アキ子と口喧嘩すれば中尾が勝つ」と言わしめる程でした。

『新春かくし芸大会』では和田アキ子さんと毒舌漫才を演じ、前川清さんがどつかれ役専門で出演することもありました。

和田アキ子さんのことは「何でみんな和田アキ子を怖がるの?(笑)」と語っていますが

和田アキ子さんもデビュー当時、ある先輩から酷いいじめにあっており

「先輩のミエちゃんといしだあゆみちゃんにはかばってもらったり助けてもらった」

と度々語っています。

2018年には中尾ミエさんと和田アキコさんのコンビで『徹子の部屋』にも出演しました。

『徹子の部屋』に、中尾ミエと和田アキ子

また「梓みちよとはデビュー当時、下宿先でもあった渡辺晋社長の自宅で取っ組み合いのケンカをよくしていた」と語ったことがあります

梓みちよさん自身も

「当時から中尾とは仲は良くなかったが、互いに良きライバルでもあり歌手としての実力や才能を認めている」と語っています。

その梓みちよさんが2020年1月29日に逝去した報道の後、中尾ミエさんは

「びっくりしました。私の天敵と言われたみちよちゃんですが、いなくなるとやはりさみしいですね」

と追悼コメントを発表しました。

中尾ミエさんの若い頃、まとめ

デビュー曲「可愛いベイビー」の大ヒットでスターとなった中尾ミエさんですが、「スパーク3人娘」での園まりさんと伊東ゆかりさんがのちにヒット歌手となっても友情を持ち続けていたみたいですね。

年代によってはテレビのバラエティやドラマでの活躍のほうが有名かもしれません。

中尾ミエさんは70代の現在も女優として映画やドラマに多数出演されています。

普段から筋トレや食事に気を付けて生活されていて、

『週刊現代』の企画で73歳にして「最初で最後」としてグラビア姿を公開しました。

現在は自宅の横にアパートを建てていて住人とは家族さながらの生活をされているそうです。

まだまだ元気な姿をみせてくれそうですね。