1950年代生まれ

藤圭子さんの若い頃、「夢は夜ひらく」の大ヒットはどうして生まれたのか?

藤圭子

今では宇多田ヒカルの母親として有名になった、藤圭子さんは圧倒的な歌唱力と美しいルックスで1970年代に大人気となりました。

藤圭子さんの若い頃の活躍を振り返ってみます。

藤圭子

藤圭子さんのプロフィール

 

  • 出生名:阿部 純子
  • 別名:藤 圭似子・Ra U (RA U)
  • 生誕:1951年7月5日
  • 出身地:岩手県一関市
  • 岩見沢市立栄中学校卒業
  • 死没:2013年8月22日(62歳没)
  • 身長:148cm
  • 体重:39kg

 

藤圭子の若い頃、浪曲師の娘として生まれる

幼い頃から浪曲師の父・阿部壮(つよし)、同じく浪曲師であり曲師でもある母・竹山澄子(2010年に死去。享年80)のドサ回りに同行していました。

藤圭子

生活は窮乏を極め、子供の頃から生活のために納豆を売り歩いたことも・・・

北海道の岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)を卒業。

勉強好きで成績優秀だったが生活を支えるため、高校進学を断念・・・

藤圭子の若い頃、歌手を志望して上京

15歳の時に北海道岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり上京を勧められます。

歌手として生計を立てることを目指し、家族で上京、八洲秀章のレッスンを受けながらいくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て落選。

生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをして生活していました。父親は全く働かなかったそうです。

住まいもなく、高架の下でゴザを敷いて寝泊まりしていたといいます。

藤圭子

藤圭子の若い頃、作詞家、石坂まさをと出会いプロデビュー

その後、作詞家の石坂まさをと知り合い、石坂まさをの自宅に住み込みでレッスンを受けることに。

石坂まさを石坂まさを

 

石坂まさをは初代、林家三平の楽曲の作詞をした縁で海老名家と親しくしていました。

藤圭子も、とくに海老名香葉子には目をかけてもらっていたそうです。

藤圭子のデビューにあたって、石坂まさをは、

藤圭子を悲しい女として売り出すために

笑わない・上を向かない・話さない

ことを求めました。

今で言うマーケティング戦略ですね

キャッチフレーズは

演歌の星を背負った宿命の少女

というものでした。

藤圭子

藤圭子の若い頃、前代未聞のキャンペーンでブレイク

1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。

新宿の女 藤圭子

当時は珍しかったベルベットの洋服に白いギターをもって演歌を歌うスタイルは斬新でしたが・・・

売上は苦戦・・・当初、まったく売れませんでした

テレビ出演での露出アップを目指しましたが、どこも相手にしてくれませんでした。

石坂まさおをは、前代未聞のキャンペーンを行います。

1969年11月8日、藤圭子は、「新宿の女」のキャンペーンを実施。

レコード店から、路上、スナックなどを

朝9時から翌朝の10時までぶっとうしで歌いづづける

『新宿25時間キャンペーン』は、当時でも法律では許されないことでしたが・・・

これが話題になり『新宿の女』は大ヒット

ヒットチャートにもランクイン、20週連続1位

40万枚の売上になりました。

新宿の女 藤圭子

翌年、1970年2月5日にはセカンドシングル『女のブルース』を発売

藤圭子 女のブルース

作詞家の石坂まさをは、藤圭子の売出しのために

映画館で「藤圭子さんはいらっしますか」と呼び出しをしたり(実際にはいないのですが)

新幹線の呼び出しで「新宿の女を歌う藤圭子さんはいますか」などとゲリラ的な宣伝活動をおこなったそうです

「女のブルース」はオリコンヒットチャート1位、75万枚の売上となり

17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残しました。

藤圭子の若い頃、「夢は夜ひらく」は園まりの曲だった

3枚めのシングルとして用意されたのは、石坂まさをが3年前にプロデュースした

園まりの「夢は夜ひらく」でした

園まり 夢は夜ひらく

石坂まさをは、中村泰士が作詞した歌詞を藤圭子向けに書き直しました。

結果的に、今に続く藤圭子の代表曲になりました。

「夢は夜ひらく」は10週連続1位を記録し、シングルチャートでは「女のブルース」から「夢は夜ひらく」まで18週連続1位という同一歌手での連続記録を残しました。

アルバムでは「新宿の女」から「女のブルース」と37週連続1位の記録は未だに破られていません。

藤圭子 夢は夜ひらく

藤圭子の若い頃、アニメのヒロインのモデルに

演歌を歌いながらもアイドル歌手として若者からの人気も集め、少年マガジンなど多数の雑誌の表紙を飾りました。

またその人気からテレビアニメ『さすらいの太陽』(1971年放送)のヒロインのモデルにもなりました。

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藤圭子の若い頃、大ヒットのその後

「夢は夜ひらく」の大ヒット後、石坂まさをは、任侠をテーマにした曲を発表

世間は戸惑いました。

レコード会社の人たちも反対したといいます。若い人のファンが多く、アイドル的な人気もあった、藤圭子とはイメージが合わなかったようです。

この曲はオリコンチャート3位にとどまり、連続1位の記録は途絶えてしまいました・・・

藤圭子 命預けます

続く「女は恋に生きていく」「さいはての女」は、クラシックな演歌で若いファンにはあわなくなっていきました。

女は恋に生きていく 藤圭子 藤圭子

 

藤圭子の方向性を模索した石坂まさをは、作詞を当時大人気だった、作詞家阿久悠に依頼、方針転換を図ります。

1972年「京都から博多まで」を発表。

 

藤圭子 京都から博多まで

新宿にこだわっていた藤圭子でしたが、方針転換。

プロモーションも、京都から博多まで移動しながら行いました。

藤圭子 京都から博多まで

「京都から博多まで」は13万枚を超えるヒットとなりました。

1973年には、トレードマークの黒髪をバッサリ切って新曲「明日から私は」を発表。作詞は石坂まさをではなく山上路夫でした。

明日から私は 藤圭子

いい曲でしたが・・・往年の人気を取り戻すことは難しかったようです

藤圭子







藤圭子さんの若い頃、前川清さんと結婚・・・が・・・

 

1971年、当時ともに絶頂期であった内山田洋とクール・ファイブのボーカル前川清さんと結婚。

スター同士の結婚が世間で話題になりました。

藤圭子 前川清

しかし・・・大スター同士の二人の結婚生活はすれ違いが多く、芸能活動との両立は難しかったようで・・・翌1972年に離婚

しかし、お互いの仲が悪かったせいではなく

藤圭子さんが引退直前の昭和55年には、当時の人気番組「欽ちゃんのどこまでやるの」で二人は共演。

藤圭子 前川清

前川清さんは藤圭子さんの曲を歌いました

藤圭子 前川清

藤圭子の若い頃、まとめ

1970年には大阪国際博覧会が開かれ、高度成長時代。

圧倒的な歌唱力で大ヒットを出した藤圭子さんは

暗く哀しい演歌を歌いながらアイドル的なルックスを併せ持つ不思議な存在でした。

62歳での他界は残念でなりません・・・