1920年代生まれ PR

三船敏郎さんの若い頃、演技の原点は戦争体験だったのか?イケメン画像も確認しました!

三船敏郎
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日本映画を代表する俳優の三船敏郎さんは、現在の中国で生まれ兵役で特攻隊員の面倒をみるなど、青年時代の苛烈な体験が演技に結びついていたのでしょうか?

若い頃の画像をみながら振り返ってみました!

三船敏郎さんのプロフィール

  • 本名:三船 敏郎
  • 生年月日:1920年4月1日
  • 没年月日:1997年12月24日(77歳没)
  • 身長: 174 cm
  • 配偶者: 吉峰 幸子 (1950年 – 1995年)
  • 愛人:喜多川美佳
  • 子女: 三船 美佳、 三船 史郎、 三船 武志
  • 出生地:膠州湾租借地(現・中国山東省青島市)
  • 血液型:O型

三船敏郎さんは現在の中国山東省で生まれた

1920年(大正9年)4月1日、現在の中国山東省の青島に、父・徳造と母・センの長男として生まれました。現在からはほぼ100年前になりますね。

三船敏郎 1921年。満1歳のときの写真1921年。満1歳のときの写真

 

三船敏郎さんが生まれた翌年に次男の芳郎、4年後に長女の君子が生まれました。

父親の徳造は秋田県由利郡川内村小川(現在の由利本荘市鳥海町小川)の漢方医の息子で、満州に渡って貿易商や写真師となり、青島と営口で三船写真館を経営していました。

母のセンは新潟県の旗本だった家柄の生まれ。

三船敏郎さん家族は裕福な一家だったようですね。

1925年(大正14年)に家族は日本の租借地だった中国の大連に移住しましたが、市内で転居が続き、それに伴い伏見小学校、聖徳小学校、朝日小学校と転校。

1934年に三船敏郎さんは大連中学校に入学。

父の徳造が病気で入院することが多くなると、経営していたスター写真館(1929年に満州の連鎖商店街で開業)の仕事を手伝うようになりました。

このことで写真技術に詳しくなり、外国人と接することが多かったために国際的な感覚を身に着けていきました・・・

「ちょっとコスモポリタン的な雰囲気をもった明るい風光に囲まれた清潔な街でした。(中略)三船は外人キラーだといわれる素地が、すでにこのとき育っていたのかもしれません。外国人に対して、全然コンプレックスを感じたことがないのです」

 

少年時代は相当な放蕩息子で盛り場で遊んで朝帰りをしたり、映画をたくさん見たりするなど、やりたい放題な生活を送っていたようです。

少年時代に当時の映像文化に親しんだことが後の俳優業に影響したのかもしれませんね。

イケメンですし173センチの身長は当時としては高くてモテそうですね!!

20歳の時に陸軍に入隊

大正時代の好景気な時代に大陸でおおらかに育った三船敏郎さんですが、昭和にはいり戦争の荒波に揉まれていきます・・・

1940年に徴兵検査で甲種合格となり、陸軍に応召されました。

三船敏郎 戦時中

広島の宇品港に招集され、初めて日本の土を踏みますが、すぐに貨物船に乗って満州に逆戻りし、公主嶺にある陸軍第七航空教育隊に入隊。

三船敏郎さんは軍事訓練を受けるなかで、「鬼も泣く関東軍」と呼ばれた航空教育隊での上官のしごきは凄まじく、何かにつけて殴られ、声がデカイというだけで殴られることもあったそうです。

軍事訓練を受けた仲間はみんな戦地へ行って帰ってこなかったそうですが、

三船敏郎さん写真の経験と知識があったことから航空写真班に回され戦地へいくことを免れました。

「最初は写真なんか嫌だと思って親父を恨んでいたけど、写真をやっていたおかげで今まで生きているわけです。」

偵察機が赤外線カメラで撮影した航空写真を組み合わせ、敵地の地図を作成するという仕事に従事し、戦地に赴くことはありませんでした。

しかし、上官に対して反抗的な態度を取っていたため、終戦まで上等兵のまま過ごすことに・・・

炊事場の責任者でもあり、よく仲間のために料理を作って酒盛りを始め、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄いました。

後輩兵だった鷺巣富雄(うしおそうじ)によると、古参兵の三船敏郎さんは初年兵をよくかばったりするなど面倒見がよく、少年兵がいじめられているのも見過ごせず、上官が相手でも「お互い階級章を外して、人間対人間で行こう」と喧嘩腰になったこともあったといいます。

三船敏郎軍隊の演劇での三船敏郎さん

 

特攻兵を送り出した戦争末期

太平洋戦争末期には、熊本県上益城郡(現在の熊本市南区城南町隈庄)の小さな特攻隊基地である隈庄飛行場の飛行第百十戦隊に配属され

そこで沖縄の特攻作戦に向かう少年航空兵たちを教育し、彼らが出陣する前に遺影を撮影しました。

翌日に出撃する少年兵のために、なけなしの食糧からすき焼きを作って食べさせたり、酒を飲ませたり、ヒロポンを打って興奮状態にさせたりして送り出しました。

少年兵が飛び立つ時には、「『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『お母ちゃん!』と叫べ」と言ったといいます。

戦時中に家族を失う

やがて沖縄の特攻隊基地が手薄になり、同地に派遣されることが決まったが、その矢先に8月15日の終戦を迎えました。

それまでに両親は亡くなり、弟の芳郎も招集されたため行方が分からず、妹の君子も安否不明。

それ以外の親戚もおらず、大連の写真館も爆撃で焼け落ちていたため、三船敏郎さんには帰る場所と迎えてくれる家族がいなくなっていました。

三船敏郎さんの若い頃、東宝ニューフェースに合格

終戦で除隊した三船敏郎さんは、軍隊から二枚の毛布を貰い、汽車に乗って原隊の滋賀県に行きしばらく琵琶湖辺りで遊んでいましたが、東京出身の初年兵に誘われて田園調布に居着いたあと、兵隊仲間と横浜の磯子で生活し、弟の芳郎や妹の君子と再会しました。

その後、弟の芳郎は明治大学に進学したあと自衛隊に入隊、妹の君子はハワイに住む日系人と結婚しました。

三船敏郎さんは横浜で進駐軍が飲むコカ・コーラの原液が入ったドラム缶を運ぶ肉体労働に従事していました

しかしそれだけでは将来が不安なため、航空教育隊時代の先輩兵の東宝撮影所撮影部に所属する大山年治を訪ねました。

その縁でちょうど募集していた第1回東宝ニューフェイスの試験を受けることに・・・

1946年6月、三船敏郎さんはニューフェイスの面接試験を受けたが、俳優の仕事には興味がなくいやいやだったため

審査員に「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と言い返したりするなど、不機嫌な態度を取ったため顰蹙を買ったそうです。

試験会場に居合わせた高峰秀子さんによると、三船敏郎さんの振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もしなかったというが、そんなふてくされた態度は「照れ隠しだった」。

そんな不遜な態度をとっていた三船敏郎さんにたいして、黒澤明監督が興味をもったともいわれています

最終的に三船敏郎さんは補欠で採用されることになり、応募者4000人の中から選ばれた、男性16人、女性32人の合格者の一人となりました。

同期には堀雄二、伊豆肇、堺左千夫、久我美子、若山セツ子、岸旗江、のちに三船夫人となる吉峰幸子などがいました。

もともと、撮影部を希望していた三船敏郎さんは演技することに積極的ではなく

「男のくせに、ツラで飯を食うなんて好きじゃないです」

と断っていましたが、説得されてしぶしぶ役者の道に進むことになりました・・・








1947年、谷口千吉監督の「銀嶺の果て」に出演

銀嶺の果て 三船敏郎さん銀嶺の果て 三船敏郎さん

 

この映画では志村喬さん若山セツ子さんと共演しています。

映画中ではあくまで主演は志村喬さんでしたが三船敏郎さんの乱暴者の演技が黒澤明監督の目に止まり、その後の名コンビとなっていきます。

1948年、三船敏郎さんが28歳のとき、黒澤明監督の「酔いどれ天使」で演じたやくざ役が大当たりし、戦後のスター俳優の地位を不動のものにしていきました・・・

この映画でも志村喬さんが主演ですが、

黒澤明監督によりますと、撮影の過程で三船敏郎さん演じるヤクザ松永の存在感が増していき、先輩の志村喬さんの酔いどれ医者先生を圧倒するようになったそうです。

「酔いどれ天使」三船敏郎さんギャラは1万円でした。

調べてみますと当時の巡査の初任給が2000円程度とのことですので、現在の20万と考えると100倍なので

当時の1万円は現在では100万円程度の金額だったと想定できます。

それを知った黒澤監督は、新人だとしても安すぎると思い、背広を一着買ってプレゼントしたそうです。

黒澤明監督はこのときの三船敏郎さんについて

彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」

と話しています。

黒澤明、三船敏郎コンビの黄金時代

「酔いどれ天使」

に出演以降、15本の黒澤映画に主演しました。

『羅生門』はヴェネチア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞

『七人の侍』では英国アカデミー賞主演男優賞にノミネート

7人の侍

『用心棒』『赤ひげ』ではヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞

など世界的にも大人気となりました。








同期の女優・吉峰幸子と結婚するが・・・

すでに大スターとなっていた1950年、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚します。

彼女と三船敏郎さんはその後、泥沼離婚劇を繰り広げますが三船敏郎さんの晩年をともに過ごすことになります・・・

吉峰幸子 三船敏郎

結婚の媒酌人は山本嘉次郎監督が務めました。

三船敏郎さんの両親はすでに他界されていたため、親代わりとして志村喬夫妻が出席したという。

挙式は青山学院大学の礼拝堂で行われ、幸子夫人は22歳、三船敏郎さんは29歳。お似合いの美男美女カップルであったという。

三船敏郎さんの息子の史郎さんが当時のことを話しています

「デビューからしばらく、父は岡本喜八監督といっしょに下宿していたんですが、昭和25年にニューフェイスの同期生だった母(吉峰幸子)と結婚してからは、小さな家に間借りして住みました。

 

映画出演で収入も増えたころに、近くにあった医者の未亡人のおおきな洋館を買い取って引っ越したんです。」

 

「その洋館で、私は小学校から大学生まで暮らしました。私はちょうど、『羅生門』が公開されたときに生まれたんです。黒澤監督の長女の和子ちゃんは『七人の侍』のときの生まれです。

 

だから僕は『羅生門』の子、和子ちゃんは『七人の侍』の子って言われていました。

 

黒澤監督の作品に父が出演している頃って赤ん坊だったので、当時に父については記憶がないんです。」

三船史郎三船史郎さん

 

長男三船史郎、次男武志が生まれ、1970年あたりまでは夫婦関係は円満だったものの、1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船敏郎さんの酒乱に悩まされた幸子さんにより、家から追い出されてしまいました。

泥沼の離婚裁判に・・・

幸子夫人は自分から三船敏郎さんを追い出したものの、復縁を望んでおり、

三船敏郎さんからの離婚を拒否

泥沼の離婚裁判が世間を騒がせたようです。

この離婚裁判の間に三船敏郎さんは女優・喜多川美佳と交際し、1982年には娘の三船美佳さんが生まれています。

三船敏郎さんの若い頃、まとめ

三船敏郎さん

が生まれてからすでに100年たっていますが、名作と呼ばれる作品を多く残されている素晴らしい俳優ですね。

離婚裁判では当時の週刊誌ネタとして話題になったようです。

これだけの大俳優、イケメンであれば仕方ないような気もしますね!