


「ドリフターズ」のメンバーとして大活躍した高木ブーさん
個性的なドリフのメンバーの中でも人気者でしたが、ドリフ加入前の若い頃はバンドリーダーとして活躍されていました。
高木ブーさんの若い頃の活躍を振り返ってみます。
高木ブーさんのプロフィール
- 本名:高木友之助
- 生年月日:1933年3月8日
- 出身地:東京府東京市豊島区(現在の東京都豊島区)生まれ
- 千葉県東葛飾郡柏町(現在の千葉県柏市)育ち
- 京北学園中学校
- 白山高等学校
- 中央大学経済学部
- 身長:160 cm
高木ブーさんは1933年(昭和8年)に昭和東京府東京市豊島区巣鴨(現:豊島区巣鴨)に生まれました。
家族は父と母と3人の兄と2人の姉がいます。
4男で末っ子で育ちました。
第二次世界大戦末期の1945年に戦災で焼け出され、
12歳の時に母方の郷里を頼って千葉県東葛飾郡柏町篠籠田(現:千葉県柏市明原2丁目)に一家で移り住みました。
3人の兄と2人の姉を持つ末っ子だったため、6番目の子という意味で、近所では「ロクさん」または「友ちゃん」という愛称でかわいがられていました。
音楽に興味を持ったのは小学生の頃で、高木家には当時まだ珍しかった蓄音機とジャズのレコードがあり、何となくではあるがそのレコードをよく聞いていました。
この頃学校やラジオで聞こえていた音楽といえば唱歌、軍歌、浪花節がほとんどで、ジャズのメロディはとても新鮮で刺激的に聞こえたようです。
身体が自然に動き出すようなウキウキした気分になったのを今でも覚えてる。ジャズのレコードが僕を音楽の道に導いてくれたのかもしれない
京北学園中学校に進学。
3年の頃に、兄からウクレレをもらってそれ以来夢中になりました。
高校は東京都の白山高等学校に進学。
高校一年の頃の高木ブーさん、「ウクレレを持ってるから」という理由で誘われて、ハワイアンバンドの一員としてステージで演奏することもありました。
高木ブーさんは大学時代からバンド活動を始めていた
中央大学経済学部に入学
学生時代に音楽研究会「ルナ・ハワイアン」に所属、ハワイアンバンドとしてバイトで演奏していました。
すでに当時の大卒の初任給より多いギャラをもらう月もあったことから、
大学卒業後は父親のツテで東京ガスの採用が内定していましたが、それを蹴ってプロのミュージシャンとなりました。
当時の芸名は高木智之で、自身がバンドのリーダーを務め、
アメリカ軍キャンプをまわったり、返還前の沖縄や台湾、フィリピンを巡るワールドツアーを敢行するなど順調なバンド活動を続けていました。

その後、ジェリー藤尾からスカウトされ
「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」のバンドマンとして日本の芸能界での活動を始めました。
「パップ・コーンズ」で仲本工事と出会い
次の「シャドーズ」でも行動を共にし、のちに2人はザ・ドリフターズに加入することになります。
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1962年には一般人の女性と結婚、一女をもうけています。
眼科の秘書だった妻とは、知人が主催したダンスパーティーで知り合い、スラッとしたスタイルにモダンな雰囲気の彼女に高木ブーさんは一目惚れ
彼女の実家は由緒ある家柄で、相手の母から不安定なバンドマンである高木ブーさんとの結婚を猛反対されました。
しかし相手の祖母の「職業に貴賤はないよ、あの彼なら大丈夫」の鶴の一声で許可が下り、
1962年2月1日に高木28歳妻25歳で結婚
出典元:介護ポストセブン
2年後には一人娘が生まれました。
妻は洋裁が得意で、高木ブーの無名時代には、妻が内職をして家計を支えました。
その後、高木ブーさんは浮気することなく添い遂げることになります。
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高木ブーさん、ドリフターズにスカウトされて加入
横浜のジャズ喫茶での演奏中に、前ドリフリーダーでバンドオーナーだった桜井輝夫と、ドリフの新リーダーであるいかりや長介にスカウトされ、
1964年9月16日、ピアニストの欠員補充としてドリフに参加することになりました。
当時すでにドリフターズは人気バンドで、テレビ番組「味の素ホイホイ・ミュージック・スクール」ではレギュラーを努めていました。
しかし、メンバーがまとめて抜けてしまい・・・
高木ブーさんや荒井注さんがスカウトされました。
ドリフ加入について
「自分(がリーダー)のバンドを持っていたから、入りたくなかったけど、説得されて入った」
と話しています。
ドリフに移籍するにあたって給料の値上げを要求しようとしたが、うまく言い出せず、
「娘が産まれたばかりでミルク代がかかる」
などといった世間話を30分ほども続けた末に、やっと、給料5,000円アップを提示されました。
それでも娘が生まれたこともあり、迷いがあったため、帰宅して妻に相談すると
「(ドリフに)行った方がいいんじゃない?新しいことに挑戦してみたら」
と背中を押されたことで加入を決めました。
本人は当初、楽器の腕前を買われてスカウトされたものと思っていましたが、
いかりやさんは
「太っていてコミックバンド向きの外見だから、新生ドリフにスカウトした」
そうです。
芸名を“高木ブー“に変更
ドリフターズ加入後もしばらくは「高木智之」の芸名で活動していましたが、「高木ブー」に変更することに。
「高木ブー」の芸名については、ドリフターズとして所属する渡辺プロダクションの先輩である「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇から、
「お前は太っているからブーでいいや」という一言で決定。
ハナ肇さんは、加藤茶、荒井注、仲本工事も命名していました。
1966年にはビートルズの日本公演の前座を務め、
演奏力とお笑いの要素をミックスした楽曲は大ヒット!
「8時だョ!全員集合」のブレイクにつながっていきました
「ミヨちゃん」(1969年)
「ドリフのズンドコ節」(1969年)
「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」(1970年)
「誰かさんと誰かさん」(1970年)
1969年「8時だョ!全員集合」がスタート
ドリフターズの人気は毎週土曜日に放送された「8時だョ!全員集合」で大ブレイク
俳優やアイドル歌手など多彩なゲストがコントを演じたり、体操や合唱など多彩な演出で大人気になりました。
最盛期には50%の視聴率を稼ぎ、「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれました。
高木ブーさんも太めの体型とイジラレ役で欠かせないメンバーとして活躍していました。
高木ブーさんの若い頃、まとめ
仲本工事さんが不慮の事故で亡くなり、高木ブーさんはまだ現実を受け止められないとのことで大変ショックを受けているそうです。
高木ブーさんは人柄のよさだけでなく、
大学を卒業しながらミュージシャンをめざしたり、
自らリーダーをつとめていたバンドを辞めてドリフターズに参加したことなど、
とても決断力のある人物ですね。
まだまだ、元気で活躍してほしいです。


