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カーペンターズとは・・・
「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「プリーズ・ミスター・ポストマン」等のヒット曲で知られる、兄妹のポップミュージックデュオです。
カレン・カーペンター(Karen Anne Carpenter)
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- 1950年3月2日生まれ
- 1983年2月4日死亡 32歳没
- アメリカ・コネチカット州ニューヘイブン出身
リチャード・カーペンター(Richard Lynn Carpenter)
- 1946年10月15日生まれ
- アメリカ・コネチカット州ニューヘイブン出身
Richard Carpenter (Richard Lynn Carpenter)
15 de octubre de1946, New Haven, Connecticut, Estados Unidos ??️ pic.twitter.com/sTnnv45axW— Daniel Caamaño #PolicarpoFilm?? ️#TodoFierro?? (@Daniel_Caamano) October 16, 2018
カレン・カーペンターの拒食症との闘い
1978年、3年間のダイエットの結果、カレンの体重はなんと36キロにまで減少していて、周囲の人たちも早急に何とかしなければならないと考えていました。
カレン本人に話しても、「危険はわかっているし自制はしている、自分は大丈夫」と答えるだけで周囲の声に耳を貸そうとはしませんでした。拒食症の患者は、周囲に対してうまくごまかすそうです。それがカレンの死を早める結果につながっていきます・・・
しかし、マネージャーのジェリーは、カレンの話を信じず何とかしなければならないと考えました。
ジェリーはハリウッドで最も影響力をもつマネージャーで、これまでに「エルヴィス・プレスリー」「フランク・シナトラ」「ニール・ダイヤモンド」「ジュディ・ガーランド」「ボブ・ディラン」「ジョン・デンバー」などを担当してきた人物でした。この敏腕マネージャーがカーペンターズを担当したとき、まず第一にカレンの体調を心配しました。
カレンのやせ細ったあまりの状態に「このままでは死んでしまうよ、カレン」と繰り返し、カレンに治療を勧めていました。
カレン・カーペンターに治療を勧めるが・・・
ジェリーはある日テレビのトークショウで、拒食症について語る心理療法士のスティーブン・レベンクロンをみて、彼ならカレンの治療ができるかもしれないと考え、連絡をとってみることにしました。
そのころはまだ、拒食症という病気が一般的でなく、治療法も定まっていませんでしたが、テレビで拒食症について話すスティーブン・レベンクロンは有名人で本も出版しており、拒食症の治療で全米から注目されていました。
アメリカ中からの診察の依頼を受けていたスティーブン・レベンクロンが、留守番電話に残っていたメッセージを見てジェリーに連絡したのは3日後でした。
ジェリーはカレンカーペンターの治療について相談しました。
スティーブン・レベンクロンは、カレンカーペンターについてあまり知りませんでしたが、テレビで見て驚いた・・・
「まいったな、この子は拒食症にかかっているぞ!彼女は治療の必要がありそうだ」とジェリーに話しました。
ジェリーからコンタクトをとるように勧められたカレンは、ニューヨークにいる心理療法士のスティーブン・レベンクロンに連絡をとりました。1979年3月でした。
スティーブン・レベンクロンに電話したカレンは、「ジェリーは私のことをとても心配してくれるけど、彼は誤解しているの。私の病気は胃腸障害でそのために下痢がおきるの。」と拒食症を否定しました。
スティーブン・レベンクロンも「それでしたらわざわざニューヨークまで来ていただくこともないでしょう。胃腸の専門医のところにいらしてください」と対応し、しばらくお互いのことは忘れていきました。
カレンは自分の症状をうまくごまかしてしまったのです。
その電話のやり取りから2年半がたち、ますます病状が悪化していました。周囲の人たちもこのままではいけないと危機感を感じて、ニューヨークにいるカレンの友人のイッチーを通じてスティーブン・レベンクロンに再度治療をお願いしました。
当初、カレンはニューヨークに行き2,3時間の治療ですぐ戻るつもりでいました。しかしスティーブン・レベンクロンはとてもそんな短時間では治療できないとカレンを説得しました。そのような患者の扱いには慣れていたからです。
1981年11月にニューヨークにいき治療を開始しました。ニューヨークの生活には友人のイッチーが話し相手として支えていました。治療期間は最低でも1年は必要だろうと計画されていました。
スティーブン・レベンクロンの回想によると、診療所にやってきたカレンは「下剤の錠剤を山のように服用し、大変危険な状況に陥っていた」と話しています。
スティーブン・レベンクロンにとっても、カレンの治療は困難を極めました。肌寒い季節にもかかわらず汗をかいているカレンのおかしな様子から、服用している薬を確認すると、下剤が一日80から90錠、甲状腺の薬を通常の10倍も服用していました。甲状腺に問題がないにもかかわらず・・・
甲状腺の薬は、心臓の負担を増し新陳代謝を促すことで痩せるという・・・効果があるようです。
スティーブン・レベンクロンは、知り合いの内科医に相談したところ「甲状腺の薬の服用を続ければ、命の保障はないよ。全部飲みきるまで命がもたないだろうね」といわれ、即刻薬をやめるようにカレンに強く話しました。
スティーブン・レベンクロンの知る限りでは、その時点で薬の服用はやめたはず・・・だったが・・・。
ニューヨークでは、週に5日、治療でスティーブン・レベンクロンの元にいき、普段はホテルでイッチーと過ごしました。
カレンは、相変わらず食事をとっては、下剤を飲むの繰り返しの日々だったようです。
スティーブン・レベンクロンは、カレンの治療を進めながら、かつてカレンを治療したカリフォルニアの医者に問い合わせてみましたが、不吉な返答が返ってくるばかりだったといいます。
「私は、カレンが死に向かっていると思う。きみが彼女を止めてくれることを心から願っているよ」
「あまり希望はないね。実際どんな治療にも抵抗するからね。回復の見込みはきわめて小さいと思うが・・・」
「幸運を、スティーブ、これは治療できる人物ではないんだ」
スティーブン・レベンクロンの治療を受けている間、兄のリチャードは、スティーブン・レベンクロンはカレンにごまかされているのだ、と感じていました。
「カレンに必要なのは、入院による治療なのだ!アルコールでもドラッグでも治療するには入院が必要なんだ。贅沢なホテルに泊まって、一日50分だけ話をして、あとはホテルで過ごしたり、遊びに行ったりしてよくなるわけがないよ」
「本気で治したいなら、同じ病気で苦しんでいる仲間が暮らしていて、治療構想があって、日程が決まっていて、毎日毎日対処できる場所に宿泊するはずです」
「スティーブン・レベンクロンの治療を何カ月も受けながら、痩せていくカレンをみていると、だんだん腹が立ってきました。カレンが治療を受けていると、わたしを騙しているのではないかと感じたのです」
スティーブン・レベンクロンの治療でもなかなか体調がよくならない状況が続いて、6カ月たったころカレンは緊急入院することになりました。
ニューヨークの病院では、内臓がかなり弱っているので点滴による栄養補給が行われて、カレンの体重は35キロまで減少していたが、49キロまで回復できました。しかし、体重増加も食事によるものではなかったため退院後はまた悪化していくことになります。
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Even with Karen’s weight loss over time, her voice always remained. #carpenters #karencarpenter #karencarpenterfans #karencarpenterforever #thosegoodolddreams
カレンの死因は?母の影響?
若くして亡くなったカレンですが、死に至るまでには、なにがあったのでしょうか?
カレンの摂食障害(拒食症)
カレンはかねてから、「自分の体形が太りすぎている」と悩みを抱えていました。それが徐々に固定観念となり、精神的な悩みになっていったようです。
デビュー当時身長165㎝で66㎏と、少しぽっちゃりはしていました。
1973年11月カレンとリチャードは自分たちのテレビショーの映像を見ていました。
カレンは兄のリチャードに「ねえ、お兄ちゃん。私太ってる?腕がひどくむちむちだしお尻が大きいわ」と聞いたところ
「ああ、ちょっとな。たしかにテレビは実際よりも太って見えるんだ」とさりげなく答えました。
たわいもない兄妹の会話ですが、体形を気にしていたカレンにはショックだったようです。
若い女性が体形を気にするのは特別なことではないでしょう。しかし、カレンは完璧主義者で目的を達成するためにはなにもかも極端にやってしまう性格でした。
カレンはダイエットのために筋力トレーニングを始めました。レコーディングやハードなツアーで体力を消耗しているうえに、筋力トレーニングは正しいこととは思えませんでした。
カレンは、筋力トレーニングを続けていましたが、体重が減ることはなく逆に筋肉がついて、あきらかにがっしりしてきました。
太ってきたわけではありませんが、痩せたかったカレンにはショックで運動をほとんどやめてしまい、自己流のダイエットを始めました。
実際にはカレンの危険なダイエットがいつ始まったのかははっきりとはしていません。カーペンターズのとてつもない成功が、カレンのダイエットの問題を見過ごす原因だったのかもしれません。
カレンの拒食症は母の影響も?
拒食症の治療中、家族セラピーの中で、カレンが両親に発した言葉が
「あたしのママになってよ、お願いだから」
母親からの愛情が十分でないと感じていたのでしょうか?精神的に不安定になっていたときなので、額面通りには受け取れませんが、母親との関係が病気の原因の一つだったのかもしれません。
拒食症(神経性無食欲症)とは
ボディ・イメージの障害(「自分は太っている」と考えること)、食物摂取の不良または拒否、体重減少を特徴とする。神経性食欲不振症、神経性食思不振症、思春期やせ症とも言います。
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♪ハンギングラ〜ン、ナシントゥトゥバッフラァ〜ン、レニデズマンデイオールウェイズゲッミー…今日火曜だった。 #carpenters #rainydaysandmondays #月曜感
リチャードの体調不良がカレンの死因につながった?
太りすぎを気に病んでいたカレンはダイエットに夢中になり、急激にやせていきました。
過密スケジュールも重なり、1975年9月(25歳)には体重は41kgになっていました。
カレンはいつのころからか摂食障害(拒食症)に悩まされるようになります。まだ拒食症という言葉が一般的でなかったころです。当時はこれといった治療法もなかったようです。
そのため1975年に予定されていた日本公演は中止になりました。招へい先のキョードーのコメントはカレン・カーペンターの「神経性食意不振症」によるものとされました。キャンセルによる損失も高額だったといわれ、アメリカのプロモーターが損失を肩代わりしたといわれています。
兄、リチャード・カーペンターも睡眠薬依存症となっていてグループの活動は停止状態になっていました。
リチャードは、1971年ごろから睡眠薬を利用していました。当初は適正量を使っていましたが、徐々に薬に対して耐性ができてきました。
およそ4年間は規則正しく服用していましたが、ある時、薬を飲んだまま起きていると気分がハイになることに気づき、それが気に入ったリチャードは、薬の摂取量を増やしていった。
1976年には、食事をとらずに薬を服用するようになり(空腹時には薬の効き目がいいので)、体重は63キロまで減少していました。身長180センチを超えるリチャードなので、ガリガリに見えました。
手の震えからサインがうまくできなかったり、ピアノの演奏にも支障がでてきました。
1978年末には一回に6錠ずつ、一晩で25錠近くも服用するようになっていきました。カレンの拒食症も悪化していましたが、リチャードは自分の体調も最悪で対応することができませんでした・・・
不幸なことは、当時の音楽業界ではドラッグの常用や、とんでもない行動などの悪ふざけ比べれば、カレンの拒食症・リチャードの睡眠薬中毒などはたいした問題ではないと考えらえていたことです。
そのために対応がおくれてしまいました。1979年ついにリチャードは入院し薬物治療を行いました。すでに会話もままならい状態だったといいます。
元来、几帳面なリチャードは治療をしっかりおこなって健康を取り戻していきました。
リチャードは、自分の治療にあわせて、カレンにも拒食症の治療をすすめましたがうまくはいきませんでした。
カレにンの結婚生活は破綻
カレンは、1980年、30歳の時、実業家のトム・パリス氏と結婚しますが、翌年暮れには結婚生活は破綻してしまいました。
離婚の手続きをすすめていましたが、離婚同意書にサインする直前にカレンは死去しました。そのため、現在も既婚となっています。
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カレンカーペンターの最後・両親宅で倒れる
カレンは1982年11月、スティーブン・レベンクロンの治療を途中で中止してニューヨークからロスアンジェルスに帰ってきました。
両親は、全く回復していないカレンの姿に失望し、リチャードとともに入院治療をすすめたが、カレンはかたくなに断ってきて、取りつくしまもなかったといいます。
1983年2月3日、死の前日、カレンは「週末をオリビアニュートンジョンと過ごしたい」と母親に電話で話したところ、体調が悪いことを理由に休息をとるように言われ激高し、兄のリチャードにあたりちらしました。
カレンは、親の機嫌をとることを考えたのか、突然、両親宅を訪れました。
カレンは両親とともに、ファミリーレストランにいき、チキンやサラダを注文し口に運んで食事を楽しみました。
両親は、きちんと食事するカレンの姿に安心し、カレンの拒食症は改善に向かっているのだろうと考えました。自宅への帰りには持ち帰りのタコスも買い、自宅でほうばっていました。
もちろん、カレンの拒食症は治ってはおらず、その日も夜に大量の下剤を服用していたと思われます。
1983年2月4日早朝、母親のアグネスは、カレンが床に倒れ意識不明になっているをところを見つけました。目は開いていたが、呼吸はしていない様子に、すぐに救急車を呼び、近くに住む兄・リチャードに電話。
リチャードは、朝、8時55分に母親の叫び声に起こされました
「カレンが・・・床に・・・白目をむき出して・・・救急車を呼んだわ」
最悪の事態を考えながらリチャードは、5分ほどで両親の自宅に。到着したときは、カレンと両親は救急車の中でした。
病院での蘇生措置にも拘わらず、カレンの死亡が確認されました。
死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われています。
検視解剖結果の最初の項目は肺水腫(心不全)。
二番目が食欲不振症。
三番目の所見は悪液質。
となっていました。
カレンが亡くなったときの体重は?
カレンが亡くなったとき、体重は50㎏近くまで戻ってきていました。36㎏を割るところまで痩せていましたが、7年間にも及ぶ闘病生活のために体力が落ちていたのでしょうか?
32歳の早すぎる死でした。
カレンを死に追いやった過密スケジュール!!
1970年代の中ごろには、度重なるツアーや長期に及ぶレコーディング・セッションによって2人は疲弊していきました。コンサートとTV出演などは、とんでもない回数でした。
年 | コンサート回数 | TV出演回数 |
---|---|---|
1971 | 145公演 | 10番組(“Make Your Own Kind of Music”など) |
1972 | 174公演 | 6番組 |
1973 | 174公演 | 3番組 |
1974 | 203公演 | なし |
1975 | 118公演 + 延期46回 | なし |
1975年には、カレンがショーの途中で過労によって倒れ、その影響で予定されていた日本公演もキャンセルとなりました。
リチャードも、睡眠剤の乱用によって中毒症状をおこしていき、カーペンターズとしての活動ができなくなっていきました。
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日本でも大変人気のあるカーペンターズですが、曲の良さはもちろんですが、カレンの歌声がすばらしいことにあると思います。
早すぎる死は本当に悲しいですね。
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