梅宮辰夫さんは2019年12月12日、慢性腎不全のため神奈川県内の病院で亡くなりました。
「東映ニューフェイス」で1959年にデビュー。
“最後の昭和スター” の若い頃を画像で振り返ります。
愛妻クラウディアさんとの出会いも調べました。
梅宮辰夫さんのプロフィール
- 本名 梅宮 辰雄
- 生年月日 1938年3月11日
- 没年月日 2019年12月12日(81歳没)
- 出生地 満州国・ハルビン
- 茨城大学教育学部附属愛宕中学校
- 早稲田高等学校
- 日本大学法学部(中退)
梅宮辰夫さんの若い頃、生まれは満州のハルピン
会津出身の梅宮辰夫さんの祖父・辰次郎が陸軍士官学校卒業後日露戦争に従軍、その後、妻とともに満州・奉天に移住、辰次郎は関東軍参謀・板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだといいます。
当時は陸軍士官学校はエリートコースですね。梅宮辰夫さんの祖父は優秀な人物だったようです。
祖父、辰次郎の次男で父の次郎は満州で生まれ、満州医科大学を卒業し医師となった後、満州国ハルビン特別市で満鉄病院に勤務してました。
梅宮辰夫さんの父親は医者ということです。代々優秀な家計であったことがわかります。
梅宮辰夫さんのほか弟と妹それぞれ2人ずつおり5人兄弟。
一家はその後、父、次郎の異動により開原市(現中華人民共和国遼寧省)に移住、同地で太平洋戦争終戦を迎え、1946年に他の引揚者らとともに信濃丸で博多港に帰国しました。
満洲から帰国して半年後に茨城県水戸市の病院に職を見つけた父とともに一家で移住。
梅宮辰夫さんの若い頃、医者を目指すが挫折
梅宮辰夫さんは、父親の後を継いで医者になる道を歩んでいましたが、医学部を受験したが不合格で断念しています。
梅宮辰夫さんの若い頃、東映ニューフェースに合格、芸能界デビュー
日本大学在学中に銀座でスカウトされ、1958年(昭和33年)、東映ニューフェイス5期生に合格。
東映へ入社し、翌年映画『少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズで主演デビュー。新人時代は他に『遊星王子』等子供向けヒーロー映画に主演していました。
新文芸坐 梅宮辰夫追悼上映上映作⑨「遊星王子」辰兄ぃはスーパーヒーローだった!いつもはしがない靴磨き、しかしその正体は遊星からやってきた仮面の王子!子供たちに危険が迫れば何処からともなく現れる正義の人がスクリーンに帰ってくる!国立映画アーカイヴからフィルムを取り寄せて奇跡の上映! pic.twitter.com/0JOlRJ7Cd6
— 小玉大輔 (@eigaoh2) January 11, 2020
梅宮辰夫さんの若い頃、「不良番長シリーズ」が大ヒット
梅宮辰夫さんは、「アクション映画」や「仁侠映画」で硬派な役柄で活躍していたましたが、段々私生活が派手になっていくのに合わせて、梅宮辰夫さんの私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄が増えていきました。
1965年(昭和40年)の『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」から1968年(昭和43年)からの「不良番長シリーズ」などで東映の看板スターになっていきました。
「不良番長シリーズ』では、後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、さらに人気シリーズとなっていきました。
1972年(昭和47年)、梅宮辰夫さんが経営する事務所「梅宮企画」が倒産。
多額の借金で窮地に立たされるが、クラウディアさんと再婚、同年には娘のアンナが誕生しました。
梅宮辰夫さんの若い頃、「仁義なき戦い」が人気シリーズに
1973年(昭和48年)からは『仁義なき戦い』での存在のある演技で当たり役となります。
菅原文太と梅宮辰夫レーンとかすげぇな!!
これは仁義なき戦いの全握? pic.twitter.com/9rJA6oh51b— akiwak sun (@akiwak2) December 12, 2019
梅宮辰夫さんの若い頃、「前略おふくろ様」の渋い演技で新境地を開く
1975年、倉本聡さんに請われて『前略おふくろ様』に出演します。「渋い」板前役、ひでさんを演じ、これまでとは違った渋い役者として新境地を開きます。
『前略おふくろ様』で萩原健一さん、梅宮辰夫さんと。
─追悼・八千草薫さん─
ご冥福をお祈り致します。 pic.twitter.com/LLvdoxaUDI— ナッツ7つ (@ntsu579) October 28, 2019
前略おふくろ様に出演
されていた俳優さん達が
今年次々と亡くなられて
昭和の時代が何となく
遠ざかって行く様で
なんか寂しい…
梅宮辰夫さんに追悼の意を込めて
前略おふくろ様をパート1から
観ようと思います? pic.twitter.com/jYqHpTCjMJ— 高橋 覚 (@_S_TAKAHASHI) December 14, 2019
梅宮辰夫さんの若い頃、クラウディアさんとの出会いは?
東映スターとして、とにかく女性にもててもてて仕方がない梅宮辰夫さんは紆余曲折ののちクラウディアさんと結婚します・・・
1968年(昭和43年)、3年間同棲し既に妊娠4ヶ月だった若井常代と一方的に婚約を解消。
同年12月に結婚した最初の妻は、銀座のクラブ「姫」のホステス・大門節子でしたが、これも半年で離婚。
梅宮さんは大門節子と別れた後も銀座に通いつめ、高級クラブでホステスをしていたクラウディアさんと出会います。
これが2人の馴れ初めでした。
クラウディアさんはアメリカ人の母は幼い頃に亡くなり、ドイツ人の父の仕事の関係で来日していました。
ミッションスクールを卒業後、ファッションモデルをしている時に日本人男性と結婚しましたが、まもなく離婚して生活のために銀座で働くようになりました。
二人は週の半分は彼女が住む六本木のマンションで過ごすようになり、結婚は時間の問題と思われましたが、梅宮さんの母親が二人の結婚に猛烈に反対しました。
梅宮辰夫さんは、大門節子との結婚を母親の反対を振り切って一緒になりました。
しかし、すぐ別れることになり、“言わないこっちゃない”という結果になったのです。
そのため、クラウディアさんの時は母親の承諾を得ないと結婚しないと決めていました。
実は梅宮さんは、母親にはなかなか逆らえなかったのです。
母親としては、梅宮辰夫さんに、女医と結婚してもらい、実家の「梅宮医院」を継いでもらいたかったようです・・・
梅宮辰夫さんとクラウディアさんの関係は1972年にスポーツニッポンに結婚とすっぱ抜かれ、1972年年3月に結婚しました。
この時すでに、クラウディアは梅宮辰夫さんの子を身ごもっており、その子が娘の梅宮アンナさんです。
娘が生まれると、梅宮辰夫さんの生活は一変、銀座に顔を指すことはほとんどなくなり、まっすぐに家に帰る子煩悩なパパになりました。
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1994年(平成6年)から実娘・アンナが、羽賀研二さんとの交際を始めると、プレイボーイの羽賀との交際に公然と反対、これら三者の関係は、ワイドショーなどで盛んに取り上げられました。
羽賀研二さんは、その後刑事事件で有罪となり刑務所に収監されることになります。梅宮辰夫さんの人を見る目は確かだったようです。
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梅宮辰夫さんの若い頃、まとめ
昭和の大スター、梅宮辰夫さんは映画やドラマだけでなく、バラエティー番組にも気さくに出演されていました。私生活や、趣味が話題になることも多く気さくな人柄が多くの人に愛されました。
晩年は病気がちで、がんと闘いながらの人生でしたが、家族に囲まれての最後だったとのことです