萩原健一さんの若い頃のイケメンぶりを画像で振り返ります

萩原健一
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萩原健一さんは2019年3月26日、GIST(消化管間質腫瘍)のため亡くなりました。GSブーム全盛期のテンプターズでの芸能界デビューから俳優の道へ。数々の伝説のドラマに出演し圧倒的な存在感を示しました。そんな萩原健一さんの全盛期の若い頃の姿を画像で振り返ります

テンプターズ

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萩原健一さんのプロフィール

  • 本名 萩原 敬三(はぎわら けいぞう)
  • 生年月日 1950年7月26日
  • 没年月日 2019年3月26日(68歳没)
  • 出生地 埼玉県北足立郡与野町(現・同県さいたま市中央区)
  • 聖橋中学校・高等学校(現在は廃校)
  • 身長 174 cm
  • 血液型 O型

萩原健一さんは、鮮魚店に非嫡出子として生まれました。

萩原健一

萩原健一さんと母親

東京都荒川区の聖橋中学校・高等学校(現在は廃校)在学中、埼玉県大宮市でスカウトされ、グループサウンズの人気バンド、ザ・スパイダースの弟分バンド、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、17歳でデビューしました。

萩原健一

萩原健一さんの若い頃、1967年、テンプターズの「忘れ得ぬ君」でデビュー

テンプターズには萩原健一さん加入前に女性ボーカルがいましたが、体調不良で演奏に参加できなかったことがあり・・・

そのため、急遽クローク係をしていた萩原健一さんにボーカルの代役を頼むことに・・・

萩原健一さんは人前で歌ったことはなかったため、とまどったが引き受けビートルズの「マネー」とアニマルズの「悲しき願い」を歌いました。

これが評判となりテンプターズのボーカルを担当することになりました。

テンプターズは「スパイダースの弟分バンド」として売り出されました。

1967年6月にヤング720でテレビ初出演、8月には第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出場し新人賞を獲得、10月「忘れ得ぬ君」でレコードデビューします。

テンプターズ 忘れ得ぬ君

テンプターズ

デビュー曲の「忘れ得ぬ君」はグループサウンズというよりも、ローリングストーンズやアニマルズなどのブリティッシュロック調の曲ですね。というか、ローリングストーンズの「黒く塗れ」そのもののようにおもいます。なぜかこの曲では萩原健一さんのボーカルではないようです。

1968年には「エメラルドの伝説」、「神様お願い!」、など、次々と大ヒット曲を飛ばして人気を得ました。

テンプターズ エメラルドの伝説

テンプターズ エメラルドの伝説

「エメラルドの伝説」は当時流行のグループサウンズの曲調ですね。萩原健一さんのボーカルも若さにあふれています。

テンプターズ 神様お願い

1968年には初の主演映画「涙のあとに微笑みを」が公開されました

1970年になると、GSブームは完全に鎮静化、ニューロックブームがやってきました。12月にテンプターズは解散します。

萩原健一さんの若い頃、沢田研二さんとロックバンド「PYG」を結成

テンプターズ解散後、沢田研二さんとダブルボーカルのロックバンド「PYG」を結成します。

 萩原健一さんの若い頃、役者の道へ

1972年に製作された松竹映画『約束』(斎藤耕一監督)で主演し、岸恵子さんと共演しました。

この映画での演技が評判となり、 本格的に俳優の道へ進むことになります・・・

萩原健一さんの若い頃、「太陽にほえろ」マカロニ刑事役でブレイク

1972年のテレビドラマ『太陽にほえろ!』の初代新人刑事=マカロニ役でその人気を決定付けることになります。

萩原健一さんの若い頃、『傷だらけの天使』で水谷豊さんと名コンビに

日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)では、水谷豊さんと息の合った演技で当時の若者の間では大人気となりました。

水谷豊さんの若い頃をイケメン画像でふりかえります!
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萩原健一さんの若い頃、ドラマ『前略おふくろ様』で世代を超えた俳優に

倉本聰脚本のドラマ『前略おふくろ様』での演技で、若者だけでなく幅広い層から支持される俳優となりました。

萩原健一 前略おふくろ様

梅宮辰夫 萩原健一

坂口良子 萩原健一

坂口良子さん萩原健一さん

坂口良子さんの若い頃、お嫁にしたい女優ナンバーワンだった!
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萩原健一さんの若い頃、4度の結婚

小泉一十三(1975年 – 1978年)
いしだあゆみ(1980年 – 1984年)
由紀(1996年 – 2006年)
冨田リカ(2011年 – 2019年)

テンプターズはショーケン自身が述懐しているところによれば、デビュー前はブルース・バンドでした。中川三郎ディスコティークの出演バンドだったこともある。「今日を生きよう」は、グラス・ルーツがイタリアのミュージシャンの曲をカバーし、さらにその曲をテンプターズがカバーしたものである。また、テンプターズはローリング・ストーンズの影響を受けていた。「神様お願い」はメンバーの松崎由治作詞・作曲のオリジナル曲であり、ストーンズから受けた影響が出ている。この時期、女優・江波杏子と交際した。

1970年に解散後は井上堯之、大野克夫、沢田研二、岸部一徳、大口広司らでPYG(ピッグ)を結成する。各種ロックフェスティバルやテレビ出演などもこなしたが、音楽活動よりも映画監督を志すようになる[6]。

1972年に製作された松竹映画『約束』(斎藤耕一監督)の製作現場に、サード助監督として参加した。だが、主演俳優・中山仁が降板したため、代役に抜擢される[7]。何人もの女優に出演を断られたが、最終的に岸惠子が共演を承諾した。この演技で高い評価を得て、俳優へと本格的に転身[8]。同年のテレビドラマ『太陽にほえろ!』の初代新人刑事=マカロニ役でその人気を決定付ける[6]。

萩原健一さんの若い頃、CMでのかっこいい演技!

「うまいんだなぁ、これが」

萩原健一さんの若い頃、まとめ

萩原健一さんは生まれついての歌手、生まれついての役者と感じるような天才肌の人物でした。努力もしたのでしょうが、どの役を演じていても個性がにじみだす稀有の俳優だったと思います。合掌・・・

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1950年代生まれ
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