幅広い活動で日本のミュージックシーンに多大な影響を与えた吉田拓郎さんですが、若い頃はフォークファンから激しくバッシングされていました。
それを跳ね返しブレイクしていった原点は、広島時代の音楽活動にあったようです。
若い頃を振り返ってみたいと思います。
吉田拓郎さんのプロフィール
- 出生名:吉田 拓郎
- 生誕:1946年4月5日鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)
- 鹿児島郡谷山小学校(転校)
- 広島市立皆実小学校
- 翠町中学校
- 広島皆実高校
- 広島商科大学(現在の広島修道大学)卒業
- 血液型:A型
- 身長:176.5cm
- 元妻:四角佳子(1972年 – 1975年)
- 元妻:(1977年 – 1984年)
- 妻:森下愛子(1986年結婚)
吉田拓郎さん、終戦後鹿児島県で出生
吉田拓郎さんのお父さん、吉田正廣は朝鮮総督府で農林官吏として勤務していました。
そのため吉田家は戦前、朝鮮京城で暮らしていました。
長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世。長兄哲朗、次女までは朝鮮で生まれ、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ、
吉田拓郎さんは末っ子として鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で生まれました。
吉田拓郎さんの音楽のルーツは広島で過ごした学生時代だった
1955年に両親が別居、立教大学に進学した兄、哲朗さんは上京し、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し、小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育ちました。
兄の哲朗さんは立教大学のジャズ研に籍をおき、のちにジャズピアニストになります。
当時、夏休みに帰省してきた兄の影響で音楽に興味を持ちました。
昭和45年発売の初アルバム「青春の詩」には哲郎さんを題材に作詞作曲した「兄ちゃんが赤くなった」を収録。
♪兄ちゃんはいつも恥ずかしそうだなぁ…きっとあの人が好きなんだ…と兄とのエピソードを歌っています。
吉田拓郎さんは小児喘息の持病があり、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供でした。
ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めました。
友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信
「僕もこれをやろう!」と決め、自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当しました。
「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」
と語っています。
吉田拓郎さん、早すぎたGSバンド時代
1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学
カントリー&ウエスタン部と応援団に入部しました。
ロックバンド「ザ・バチェラーズ」を結成。
メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがうまくいかず解散してしまいました。
翌年、新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成
「ビートルズのような4人編成で、当時大学生の拓郎さんはギターとボーカルを担当。ほかの2人はバチェラーズでも一緒だったメンバーでした。うち1人がベースで、中学の同級生で銀行員。もう1人はギターで“広島商業開校以来の天才”と呼ばれた広島大生。4人目のメンバーは1才年下の腕利きのドラマーで、自動車会社に勤めていました」
出典元:NEWSポストセブン
ザ・ダウンタウンズは1967年、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト中国地区大会に出場して優勝。
しかし、岩国キャンプで演奏していたことが“侵略基地の慰問”だと批判され、全国大会出場に出場できず
翌1968年に全国大会へ。しかし、4位という結果に終わり、バンドは自然消滅してしまいます。
吉田拓郎さんのフォーク黎明期
当時は、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロックと、ボブ・ディランなどのフォークが若者音楽として人気となってきていました。
バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨いていた、吉田拓郎さんはソロでもオリジナル曲を歌っていました。
「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」
とボブ・ディランについて語っています
1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。
「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を歌唱、中国大会2位、全国3位となります。
「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がりますが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出ていました。
当時はロックに関しても、日本語で歌うのはロックではないとか、論争がマジメに行われている時代でした。
バンドとしてコンテストに出場していましたが、デビューには至らず・・・
吉田拓郎さんの発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成
1969年には、カワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘が自主制作(ユーゲントレーベル)した「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』に参加しました
吉田拓郎さん、上京そして大ブレイク
1970年に上京しインディーズレーベル「エレックレコード」に契約社員として入社。
1970年、デビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)がリリースされるとラジオの深夜放送では曲がよくかかっていましたが、当時のテレビの歌番組では深夜のラジオで話題のミュージシャンは敬遠されていました。
2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、テレビサイドからの出演依頼がありましたが、出演拒否。世間を騒がせました。
エレックレコードでは「青春の詩」と「人間なんて」の2枚のスタジオ・アルバムを発売。
吉田拓郎さん、1972年CBSソニーに移籍
CBSソニーとアーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶと
移籍と同時に発売された「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上の大ヒット
続いて「旅の宿」がオリコンチャート1位、70万枚の売上で吉田拓郎さんの最大のシングルヒットとなりました。
1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、
「旅の宿」やモップスに作品提供した「たどりついたらいつも雨ふり」が収録され、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位を獲得。
オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走し、それまでのシングル曲を集めたアルバム制作からアルバム・セールス時代へ変わっていく先鞭をつけました。
また、当時はフォークソングが反体制プロテスタントソングだという意識が強く、ポップで自分の恋愛体験や生き方をテーマにした吉田拓郎さんは大変なバッシングを受けていました。
『元気です。』のライナーノーツで、フォークソングと取り巻く人達への決別ともいえる文章を書いています。
マスコミを批判しておきながら、そのマスコミに踊らされている人たちの多いこと。
「フォークは自由の歌である」などと、自由の顔をした不自由な顔のためです。だからもう、うんざりなのです。フォークシンガーになんかなりたくないのです。
吉田拓郎さん、四角 佳子さんと(よすみ けいこ)結婚
吉田拓郎さんと四角佳子さんの結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われましたが、マスコミの取材・会見も一切せず、おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことでした。
四角佳子さんは由美かおるさん、奈美悦子さんなどとともに西野バレエ団に所属『レ・ガールズ』で芸能界デビュー
その後「六文銭」に参加メインボーカルを担当していました。
吉田拓郎さんとの結婚を期に引退しています。

酒癖の悪かった吉田拓郎さんは町中でケンカすることが多く、怪我をしていたのを介抱してあげたのがきっかけだったといわれています。
しかし、1975年二人は離婚。当時すでに浅田美代子さんと交際していたという話もあります。
その後、浅田美代子さんとも離婚し今は森下愛子さんが連れ添っています。
そのあたりは別記事でまとめておきました。

吉田拓郎さんの若い頃、まとめ
吉田拓郎さんは、その後もフォーライフ・レコード設立、テレビ出演、音楽プロデューサーなど多方面に活躍の場を広げていきますが、
広島時代の熱気がベースになっていたんですね。
吉田拓郎さんはラストアルバムを制作中で発売日は2022年6月29日とのことです。
どのような作品なのか楽しみです。