1940年代生まれ PR

杉良太郎さんの若い頃、流し目の写真が見つかりました

杉良太郎
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時代劇の人、福祉活動の人、ディナーショーの人・・・有名人だけどどこか掴みどころのない、杉良太郎さん。

若い頃からの活躍ぶりを振り返って認識を新たにしました!

人を愛して人は心ひらき、傷ついてすきま風知るだろう

いいさそれでも生きてさえいればいつか優しさに巡り会える

杉良太郎さんのプロフィール

  • 本名:山田 勝啓(やまだ かつひろ)
  • 生年月日:1944年8月14日(76歳)
  • 出生地:兵庫県神戸市
  • 神戸市立長田小学校
  • 神戸市立西代中学校
  • 高浜海員学校(中退)
  • 身長:178 cm
  • 血液型:O型

杉良太郎さんの父親は兵庫県淡路島出身、母親は鹿児島県徳之島出身

兵庫県神戸市長田区宮川町で生まれました。

父親は建築業を営んでいて羽振りがよく、趣味がこうじて神戸市に大衆演劇の芝居小屋を作るほどでした。

4人兄弟(上にお姉さんが3人)の杉良太郎さんは、幼い頃から地元ののど自慢大会に出場するなど、歌が大好きな子供でした。

しかし、その後は父親が他人の保証人になったことで財産を失ってしまいます。

生活は困窮を極め、中学生だった杉良太郎さんは

「早く働いて親を楽にさせてあげたい」

と思うようになり

中学卒業後は、船乗りになろうと海員学校に進学します。

しかし、視力が悪かったために学校を中退

ヒット曲がでればお金が稼げるようになるだろうと、歌手を目指しました。

神戸の「夕星歌謡学院」に入学、本格的に歌の勉強を始めました。

杉良太郎さんの若い頃、刑務所の慰問を始めた頃

杉良太郎さんは芸能生活とともに積極的な福祉活動をされていますが、始めたのはデビュー前でした。

「夕星歌謡学院」の盲目の先生に誘われて、福祉施設や刑務所などを慰問し、歌をうたったのがきっかけでした。

いってみると喜ばれる。ならば行こうかと。半分は歌うと喜ばれるから、あとの半分は、歌う場所がないから自分たちのためにも行こうと。舞台度胸をつけるのに。だから自分たちのためでもあったし、人のためでもあった。

出典元:Reライフ

 

オーディションの全国大会で、作曲家の市川昭介さんにスカウトされます。

杉良太郎さんの若い頃、歌手を目指して上京・・・だが

18歳の頃に歌手を目指して上京することになりました。

東京では3畳一間のアパート住まいで、知人のカレー屋の丁稚奉公で3年間食いつなぎました。

この間、まかないのカレーライスしか口にできず、朝6時から夜11時まで無休で働き、休みは元日だけでした。

歌のレッスンは週2日、下宿の向島から上野まで、片道2時間を歩いて通ったそうです。

1965年に念願のデビュー・・・

住み込みのカレー店から、原宿の家賃2万円の1DKに引っ越しました

日本コロムビアから「野郎笠」で念願の歌手デビューを果たしましたが、

デビュー曲「野郎笠」は全く売れず・・・

杉良太郎さんは、ジーンズやスーツでステージに登場して、ブルースとかかっこいい曲を歌いたかったそうですが

デビュー曲はバリバリの演歌で、B面曲は「東海道は西へトントン」

杉良太郎 野郎笠

全く売れず、テレビ番組に出演する際はギャラどころか逆に多額の金品を要求されたくらいでした。

しかしその後、杉良太郎さんが活躍したのは着物にちょんまげの時代劇だったのですから、あながち間違ってはいなかったのかもしれませんね。

杉良太郎さんの若い頃、時代劇スターの道へ

1966年「燃えよ剣」では新選組の沖田総司を演じました。主役は土方歳三役の栗塚旭が務めています。

俳優デビューをした杉良太郎さんは演技が認められ、1967年4月7日からNHKで放送された「文五捕物絵図」主役の文五役に大抜擢されました。

杉良太郎 「文五捕物絵図」

そこから時代劇スター杉良太郎が始まりました。

本当ならば竹脇無我さんが演じる予定でしたが栗塚旭に変更され、変更された栗塚旭のスケージュール調整が困難だったため杉良太郎に白羽の矢が立ったということです。

俳優として注目された杉良太郎さんには次々とオファーが舞い込みました。

  • 1968年:「愛妻くんこんばんは」
  • 1968~1969年:「喧嘩太郎」
  • 1969年:「なんでも引きうけ候」
  • 1969年:NHK大河ドラマ「天と地と」

と、立て続けにドラマに出演。

睡眠時間は3時間しか取れず、ハードスケジュールな撮影が続きました。

 

吉永小百合/山本陽子/和泉雅子/浜田光夫/杉良太郎【青春の風】1968年吉永小百合/山本陽子/和泉雅子/浜田光夫/杉良太郎【青春の風】1968年

 

吉永小百合/杉良太郎【だれの椅子?】1968年吉永小百合/杉良太郎【だれの椅子?】1968年

 








杉良太郎さんの若い頃、「水戸黄門」の助さんが当たり役に

1969年、初代「水戸黄門」の助さんこと、佐々木助三郎役のオファーがきました。

当初は悩んだそうです。

頭に頭巾、短い刀を差してわらじをはいている役柄がかっこいいとは思えなかったそうです。

杉良太郎さんの真面目さが助さんのキャラクターとマッチし、ドラマに欠かせない役となりました。

「水戸黄門」といえば、忘れてはいけないのが、由美かおるさんですね。

由美かおるさんの記事はこちらで書いておきましたよ

由美かおる
由美かおるさん、「水戸黄門」の入浴シーンをふりかえる水戸黄門の名場面の一つに、由美かおるさんの入浴シーンがありました。 200回以上もの入浴シーンを改めてふりかえります。 お銀...

「右門捕物帖」が当たり役に

「右門捕物帖」は連続テレビドラマとして、それまでも1957年には中村竹弥主演で、1969年に中村吉右衛門主演でそれぞれ連続ドラマ化されていました

杉良太郎は3作目の主演で、北町奉行所の定町廻り同心「近藤右門」を演じました。

杉良太郎 「右門捕物帖」

杉良太郎さんの殺陣の美しさには、本人の努力があったのですね。

杉良太郎 「右門捕物帖」









杉良太郎 「右門捕物帖」

ドラマ挿入歌の「さむらい追分」も歌いました。

杉良太郎「さむらい追分/燃える男(TV映画:右門捕物帖より)」

後の「すきま風」につながっていく楽曲ですね

 

1982年には、日本テレビ系で第2作も制作され、1989年には、東映京都制作で単発ドラマ版も放映されました。

 

「遠山の金さん」で役者として円熟の境地へ

 

「右門捕物帖」で時代劇の役者として人気が定着しましたが、それ以降の

「遠山の金さん」「新五捕物帖」では役者として円熟期を迎えていきます。

「遠山の金さん」自体が人気時代劇でしたので、多くの有名俳優が演じています。

後に高橋英樹さんや松平健さんも演じていますね。

杉良太郎さんが「遠山の金さん」を演じたのは1975年から1979年までの4年間でした。

そして、杉良太郎さんの代表曲、主題歌の「すきま風」も100万枚を超える大ヒットとなりました。

 

「杉様の流し目」も有名になりましたね。

すきま風 杉良太郎 [itemlink post_id=”5211″

杉良太郎さんの若い頃、まとめ

「すきま風」の大ヒットがあるものの俳優としての人気が定着した杉良太郎さん。

歌手を目指しての上京後なかなか目が出ずドサ回りの日々。

それでも努力を惜しまず役者としても一流になりました。

杉様といわれ熱狂的なファンに支えられているのもイケメンだけではない努力の人だからでしょうね。

70代、まだまだ元気に活躍してほしいです!